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建網漁業

実家にて「唐桑町史」(昭和43年刊行)を読む

発刊時から随分時を経ているから
現在と評価が異なる部分もあり
なかなか面白い…


第三節第三章第六編 各論の
建網漁業(定置建網)を抜粋する

大網または大謀網と称された大資本による定置建網漁業の隆盛は
過去の物語となり、将来においても再起経営するであろうとは
もはや考えられないまでに影をひそめている。
定置網漁業はマグロ・鰹・イワシ・鯛の如き暖流性遊魚群の
来襲を待つ漁業形態である。しかるにこれらの遊魚はその進路を
沿岸から年々沖合へ移動しつつある現状であり、かつ潮流の異変も
起こり易い関係から、古文書や資料にも見られるように、大漁不漁の
おびただしい変動によって往昔もしばしば休業せざる得なかった。

いわんや大型動力船による北洋や南洋への遠洋漁業の発達にともない、
大資本を投じて魚群の来襲を待つことは、不利な愚かしいものと
考えられるに至った。

大網の沿革は古く、平安時代後三年ノ役に鎌倉権五郎と戦って敗れた
鳥海弥三郎なる人物が牡鹿郡大原浜に隠れ、兵法より案出して大謀網を
里人に教えたといわれる。
また武田信玄の家臣鳥海弥太郎なる者が天正年間長篠ノ戦に破れ、
牡鹿半島に隠れ住み、兵法より案出して里人に行わしめたとも伝えられている。

本吉地方の定置建網は、平磯村(大谷)において天文年間(1532-53)に
始められた「天文網」と称されたのが古いとされている。天保九年(1838)
には本吉郡内に十九ヶ所の大謀網を数え、歌津・平磯・大谷・大島・唐桑等で
行われたという。

江戸末期から明治時代に入って、北陸・西南地方の定置網漁業は次第に
衰えて中心は関東・東北方面に移動し、特に東北地方は盛況をきわめ、
宮城県牡鹿郡や岩手県気仙郡沿岸は最も活気を呈した。

当町における大謀網は嘉永元年(1848)古館鈴木家によって経営された
記録があり、延宝三年(1675)に五二人の網組によって創められたと
古文書に見えているが、果たして建網であったか他の網漁業であったか
不明である。

明治から大正初期にかけて定置建網漁業の隆盛を見たのは、
唐桑では古舘鈴木・中川原小野寺両家の経営にかかる
御崎岬沿岸の三丁目・中網(二丁目)・元網・津本網等であろう。

明治維新頃(年代不明)旧11月26日に滝浜蛭島網にものすごい
マグロの大群が押し寄せ、大々漁をしたという記録がある。
網あげして魚を捕り終えるのに二日間を要し、唐桑の七反船を
全部廻させて半分を気仙沼に送り、半分を畑に杭を打ってつるしたという。

また明治43年7月14日鰹まじりのマグロの大群が押し寄せ、
津本網・本網・中網・三丁目網ともに大々漁で
朝から夕刻まで引きも切らず網起しをし、
全村の浜々の船を総動員して気仙沼に運搬し、
鰹は地元鰹節製造家に小鮪は鮪節にまわしたという。
当時のてんやわんやの賑わいはまだ古老の記憶に新たであろう。

当時は手漕ぎの小船であるからいくばくも積み得ず、
せいぜい小鮪四、五百尾である。これを気仙沼の問屋に渡して
引き返し、建網で後荷を積むまで七、八時間をしたから
一日二往復しかでず、したがって運搬船を多量に動員
せざる得なかった。

中川原小野寺家所蔵の当時の水揚帳によると、一日
マグロ六、四二〇本、鰹一、五〇〇本とあるから、
運搬の小船一〇艘余を要したことがわかる。
古館網においてはそれ以上(一万尾以上と推定)の
水揚げがあったものと思われるから、大々漁の殷賑振りが
想像されるであろう。

当時の大漁を記念して御崎神社境内平棚に記念碑が建立されている。
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